各界の著名人の方をお招きして、この国の福祉の未来について僕・山本左近がお話をうかがっていくこの企画。記念すべき第1回目にインタビューさせていただくのは、僕と最も縁の深いこの方以外に考えられない。そう。僕の父であり、さわらび会の創設者である山本孝之理事長だ。僕は父の存在なしにここにいることはなかった。そんな尊敬すべき父はなぜ医者になり、40年以上前から認知症に取り組み、そして福祉村を作ったのか。こういう形で話を聞くのは少々気恥ずかしいけれど、父の言葉から、これからのさわらび会を背負って立つ人間として僕が何をすべきなのか、そして日本の福祉はこれからどうなっていくのかを、皆さんと一緒に考えていきたいと思う。
山本左近(以下S):理事長はもともと、なぜ医師になろうと考えたのですか。
山本孝之(以下T):だいぶ昔のことだから詳しくは思い出せないけれど(笑)、母親が助産婦だったことの影響でしょうか。子供のころ、母が勤務していた診療所によく遊びに行っててね。そこの息子が歯医者になるために一所懸命勉強しているのを見て、自分も医者になろうと思った。そんな覚えがあります。
S :なるほど。そうだったのですね。
T :思春期を第二次世界大戦の最中で過ごしたのち、卒後の研究室は名古屋大学の第三内科に入りました。そこで教授から動脈硬化の研究テーマをいただきました。その研究が後に大変役立ちました。
S :理事長が豊橋に戻り、山本医院を開業したのが1962年ですね。
T :医局の命令であちこちを駆けずり回っていましたが、銀行員だった父親が定年退職し、一緒に暮らさないといけなくなったので、それを機に豊橋に帰り、内科医院を開業しました。
はじめは病室を持たない山本医院でしたが入院が必要な患者さん達から「山本先生にずっと診てもらいたい」とお願いされて19床を持ち、その後98床に拡大しました。その頃まだ珍しかった脳卒中の治療とリハビリが期待されたからだと思います。
S :当時は脳卒中の全盛期だったそうですね。
T :'60年代に入り、徐々に日本人の寿命が延びてくるとともに、脳卒中の患者が増えてきました。
S :当時は脳卒中になると、絶対安静が常識だったといわれていたそうですね。
T :そうです。脳卒中で倒れると亡くなってしまうか、運よく一命をとりとめても、寝たきりになってしまう。それが普通でした。でも私は、幸せとは自立して自由に生きること、そして、自分の能力で誰かの役に立つことだと思っていました。確かに、まずは命を救うことが大切ですが、その後に寝たきりでは必ずしも幸せにはなれない。そう考えて、脳卒中のリハビリを始めました。
そして、たとえ脳卒中になっても早めにリハビリを行うことで日常生活の自立度を高め、寝たきりにさせないようにしてきました。当時、豊橋で同じことをしている病院は他にありませんでした。そのため「脳卒中で倒れても、山本病院に行けば歩けるようになる」という噂が広まり、非常に多くの人が来て下さいました。
S :僕が素晴らしいと思ったのが、当時すでに介護婦として専門の介護職を独自に作り出し採用していたことです。
T :脳卒中のリハビリは看護師や理学療法士だけでは手が足りませんでした。だから衣類の着脱やトイレの誘導など、介護士の方には資格がなくてもできることを中心にやってもらいました。必要な仕事なのでどんどん採用しましたよ。
S :さらには、ケースワーカーと呼ばれる相談員が約100床に対して6人もいたのですが、これは今の配置基準と照らし合わせてもとても多いです。ケースワーカーは病院と患者さん、家族をつなぐとても大切な役割。その人達が6人もいたのは、どれだけ先駆的に高齢者のケアに真剣に取り組んでいたかの証拠ですね。
世間の反応はいかがでしたか?
T :ご家族の皆さんには、大変喜んで頂けました。しかし、看護婦さんではない一般の女性を採用して訓練したので、保健所からは「資格のない人間を雇って病院で働かせるなんて、とんでもない」と怒られたし、看護婦さんからもストライキを起こされ大変な想いをしました。でも患者さんの着替えのお手伝いや排せつの訓練は、私が教えさえすれば資格がなくても十分でき、そして患者さんの日常生活を充実させるには、それらを行えるようにする必要がある。だから保健所とはずいぶん喧嘩をしましたよ(笑)。「何を言おうと、何が何でもやるんだ!」という意気込みで。
S :普通に考えたら、保健所からそんな通達が来たら従っても決しておかしくない。理事長は必要だと思ったことは、とにかくやり通す。そして、決して信念を曲げることはない。本当にすごいことだと思います。そして'60年代半ば以降、認知症患者の方が次第に増えていったわけですね。
T :これは、日本人の平均寿命が大幅に上がったことが大きいです。当初は脳の動脈硬化が原因である血管性認知症が多かったので、もともと脳卒中の患者さんに行っていた治療法が効果的でした。しかし降圧剤で血圧をコントロールできるようになったことで血管性認知症は減り、アルツハイマー型認知症が多くなってきたわけです。それは日本人の平均寿命が伸びたからなんですね。アルツハイマーは脳の病的老化なんです。アルツハイマー型認知症を完治させる方法は当時も今もない。当時、世界中の医師が「医者の仕事は認知症を診断するまでで、そこから先は家族に任せれば良い」という考えが普通でした。しかし、私は認知症患者を抱えたご家族が、どうしたらよいかわからずに大変困っていらっしゃるようすを、たくさん見てきました。
S :そこで、脳卒中の次は認知症患者のケアを生涯の課題にしよう、と決意されたわけですね。
T :患者の方には、自立して自由な生活をできるようになってほしい。そう考えて認知症のリハビリを始めたのです。まず具体的には排泄の自立を第一の目標としてやって来ました。その方を観察し、何時間ぐらいの間隔で排尿があるかを調べ、その直前にトイレに誘導します。ただし「そろそろ時間ですからトイレに行きましょうか」と聞くのは、自尊心を傷つけることになります。ですから「少し散歩をしましょう」と言って外に連れ出し、トイレの前を通り「ああ、ここにトイレがあるから用をたしてから行きましょう」というように、失禁を防ぐことから始めました。
そして、もっとも大切なことは、その方が一番好きなことをやっていただいて幸せを感じていただくことで脳の血の巡りを良くして、認知症を良くしようとしました。
しかし、アルツハイマーが増えたことには悩まされました。リハビリを一所懸命やって、血管性の認知症はよくなりますが、アルツハイマーは治りません。
S :ですが、楽しいことをすれば、アルツハイマーでも、症状の進行を遅らせることができると実践を通して考えたのですね。
T :そうです。脳の神経細胞には酸素とブドウ糖が必要なのですが、それを行き渡らせるのは血流。つまり脳の老化を防ぐためには、頭の血の巡りをよくすることが必要です。その方が一番好きなことをなるべくしていただくことで、脳細胞が死んでいくことを少しでも防ごう。そう考えて音楽療法・回想法など、認知症のリハビリを行ったのです。
山本左近(以下S):「一、いつも温かい愛情と笑顔で」「一、決して叱らず制止せず」「一、今できることをしていただく」という「認知症介護の三原則」を1973年に作られた経緯は、どのようなものだったのですか。
山本孝之(以下T):認知症は当時の日本では初めて出てきた病気だった。だから、家族にとってもまったく意味がわからなかったわけです。ですからご家族に向け「認知症になったらこういう症状が出るのだから、優しく支えてあげてほしい」という意味で考えた言葉なんです。
S :これはまさに、真理をついていると思います。今も新しくでている認知症のケアを紐解くと、すべてこの三原則に行き着く。患者さんに対するアプローチはいろいろと新しいものがあっても、原理原則は40年以上変わっていないことを実感します。 その度に理事長が1973年という40年以上前に認知症介護の三原則を作られたことに驚きを隠せません。
T :それまで一家の大黒柱として立派なお仕事をされて家族を支えてきた、最も尊敬する人物が徘徊をしたり排泄ができなくなったりする。家族にとって、これほど悲しいことはない。そんなつらい現実が襲って来た時に、正しく理解し、正しい対応をしてもらえるようにこの三原則を唱えたわけです。
S :'73年に発行された機関誌さわらび第1号を読んだのですが、理想として「老人天国を作りたい」という趣旨の記事がありました。老人専門病院と研究所、そして老人が生活できる老人住宅と特別養護老人ホームや公園のある老人天国を作ろう、というものです。まだ「さわらび会」が誕生する前のことでしたが、現在の福祉村の構想そのものでした。それを見事に実現させ、老人のみならず障害者や保育園の子供も含め、みんながお互いに支え、支え合う場となっている。その理想を作り上げたのは信念でしかない。あらためて自分の父でもありますし、さわらび会の理事長でもある山本孝之の歴史を見ていくと、すごい人生を歩んできたんだな、と強く思います。
ところで今、ショートステイという仕組みが制度上認められています。施設に長期に入所するのではなく、短い間だけ利用者さんが施設を利用する、というシステムです。
これについても、山本病院では40年以上前から導入していました。当時は他に、このようなサービスを行う病院はあったのでしょうか?
T :いや、ないですね。全国的にもなかったと思います。このシステムが一般的になったのは、90年ごろだと思います。当時、多くの日本人にとって、認知症とはまったくの初体験の病気。心筋梗塞やリウマチの知識を持っている人はいましたが、認知症はほとんどの人が知らないものだったわけです。それまで健康だった人がおしっこを漏らしてしまったことに、家族が怒鳴る、叱るでは、決してよくならない。それならば、こちらで引き受けるしかない。そう考えて、認知症になったお年寄りが幸せに暮らせる環境を作ろうと思ったわけです。
そして'76年、特別養護老人ホームを作るために、社会福祉法人の認可を国から受けました。これは開業医としては、極めて異例のことでした。
脳卒中などで入院した場合、治療とリハビリを経て、自立して日常生活を送れる状態になられると退院していただきました。しかし、ご自宅に帰られると症状が悪化し、再入院したり亡くなられてしまうことがありまして…。日本人の寿命が急激に伸び、老人が増えた。しかし家族は、お年寄りをどう介護したらいいのかがわからない。そんな時代だったのです。うれしいはずの退院が実は危険なことなのだ、と気づき、退院させられない患者さんは私が責任をもってお守りしていこう、と決めました。それが、私が「社会福祉法人さわらび会」を作った最初のきっかけです。でも当時、役所には「開業医が老人ホームを作るなんて、とんでもない。それは、われわれの仕事だ」などと、散々な言われようでした。それでも、やっとのことで社会福祉法人の認可をいただき、愛知県で3番目となる特別養護老人ホーム・さわらび荘を作ったのです。
山本孝之(以下T):あれは小学校の入学式の日。晴れわたり、青く澄んだ色の空の下、桜の花びらがひらひらと舞い落ちてきたのを、今もよく覚えています。帰り道で母親に「孝之は今日から小学生。立派な一人前なのだから、これからはみんなの役に立つことをしなければいけないわね。近所の氏神様が汚れ放題になっているから、毎日掃除をしましょう」と言われたのです。その翌日から、雨の日も風の日も雪の日も、母と私、そして妹で、氏神様の掃除をしました。氏神様が豊橋の大空襲で焼けてしまうまで、11年間ずっと続けたんです。それが「世のため人のため」という考えが生まれた原点だった気がします。
山本左近(以下S):その話を聞くたびに、すごいことだと感心します。
T :昔の人には、朝起きたら氏神様にお参りに行く風習があって、近所の人はみんなお参りに行きました。そこが荒れ放題だったので、皆さんにもっときれいな氏神様にお参りしてほしい、という気持ちが母親にあった。冬でも雑巾がけをするので、手がすっかり霜焼けになってしまってね(笑)。
S :理事長のすごいところは「続けられる」ことだと思います。山本病院の院内報としてスタートした冊子「さわらび」は、もう40年以上続いている。理事長が機関誌さわらびを作ろうと考えたのは、どんな理由だったのでしょう。
T :職員の皆さん同士で、お互いの仕事に対する理解を深め合ってほしいと思ったのです。組織が大きくなってくると、自分の職場以外のことがわかりにくくなる。同じ病院に勤めていて名前だけは聞いたがことあっても、どんな人かわからず、院内の情報も伝わってこない。そんなことが多々あったので、この病院がどんな状況に置かれていて、ここでどんな人がどんな考え方をして働いているかを知っていただこう、と思って始めました。
S :もちろん理事長がおっしゃったように職員の情報共有ツールでもありますが、同時に、理事長の考えや理念を職員に伝えたかったのではないかと思います。1号目の山本病院運営の目的と題して「私はお金儲けのために老人医療をやっているのではありません」という理事長のあいさつ文から始まり、現状とこれからの目標、今後すべきことなど書いてあるのですが、デイホスピタルやショートステイシステムが当時すでに自身で考えられ先駆的に実施されていたことに驚きました。
話は少しそれますが、今、国は「地域包括ケアシステム」という、医療と介護が連携する仕組みを2025年の完成をメドに作ろうとしています。それと同じことを、さわらび会は40年以上前からすでに実施している。地域包括ケアシステムと言われるずっと前から地域に根ざし医療と介護を連携させていたんです。誰からも理解されず大変だったと聞きますが、理事長たった一人、誰よりもずっと先を走っていて、今、時代がやっと追いついてきたんでしょうね。
山本左近(以下S):僕がよく覚えているのが、6歳か7歳の時に行われた介護老人保健施設「ジュゲム」の落成式でした。7階建ての真っ白なビルがとてもきらびやかで、見上げると、とてつもなく大きく見えた。その大きさこそが、いつも「友達と遊んでばかりじゃなく、勉強しろ!」と、厳しく叱る父の象徴でした。その時、僕は父の力をまざまざと見せつけられ人生のレールが見えた気がして、こう思いました。「このまま医者になって父の後を継いでも、絶対に父を超えることはできない。だから、医者にはならない」と。
山本孝之(以下T):私はその話は、ぜんぜん知りませんでしたよ。
S :誰にも言わなかったからね(笑)ちょうど、それと同時期に初めてF1レースを見たんです。きっかけは母に、鈴鹿で行われていたF1に連れていってもらったことでした。その時の衝撃は今でも忘れられません!それ以来、どうしてもF1パイロットになりたい、と思うようになったのです。そして僕は11歳でカートを始め、憧れていたF1パイロットへの道を歩むことになります。
T :そうだね。当時はもちろん、左近には医師になってほしかったのだけど…。
S :理事長はレーサーになることにはずっと反対していましたね。カートを始める時も「一生のお願いだから」と土下座しても断られ、粘りに粘ってやっと母に許してもらったぐらいでしたから。そこからカートを続けても、事あるごとに「早く辞めろ」と父から言われ続けたのを覚えています。でも、18歳の誕生日に、初めて父と二人だけで食事に出かけました。
T :確か「18歳になるけれど、左近は将来、何になりたいんだ?」と聞いたのだったね。
S :「もちろんF1パイロットになりたい」と答えると「左近が人生をかけて本気で挑戦するなら、絶対になれる。応援するよ。」と言ってくれました。その時のことは忘れられません。そして夢だったF1パイロットになって、その後、ヨーロッパで9年近く暮らしてからここに戻ってきたのが、3年前。レースの予定が突然ポッカリ空いて暇な時間ができたので、実家でのんびりしていたら、会議に出て欲しいと言われ出席したんです。嫌々。(笑) だって何も分からないし、できることないと思ってましたから。ですが、その1日に、いろいろと感じることがありました。もちろん、皆さん一所懸命やって下さっているのですが、一部のスタッフの発言が、理事長の「みんなの力でみんなの幸せを守る」という信念から少しずれている気がしたんです。その時、自分の中に大きな責任を感じてしまって…。ずれがあるなら、修正せねばならない。今まで無関心を装っていたけれども、理事長も母もすでに高齢だし事業が拡大していく中で目が行き届かなくなっているのではないか、と思いました。それが、戻ろうと思ったきっかけです。
T :確か左近の最初の仕事は、看板の掃除だったね(笑)。
S :「みんなの力でみんなの幸せを」という基本理念が書かれた看板が、コケだらけでまっ茶色だったんです。それに気づいて雑巾できれいに拭きました。基本理念とは、組織にとって一番大事なもの。レースで言えば、勝つという目的ですよね。目的を見誤ったチームは絶対に勝てません。F1という「超競争社会」の中で生きてきた僕にとって、これは死活問題なんですよ。だって、みんながF1の舞台で働き、勝ちたいわけです。ドライバーだけじゃない。エンジニアもメカニックも、コックも、みんながそこで働きたくて、世界中から自分を売り込んできて、競争する。そんな世界と比べると、福祉の世界にいる人は少々のんびりしているように思えました。
同じ目的に向かって、互いに手と手を取り合い協調しなければ、それは達成できない。医療や福祉は、レースと違いタイムや勝敗という明確なゴール、順番はつけられないけれど、大事なことはそんなに違いはないんじゃないかな。
T :左近が戻ってくると決めてくれた時は、すごくうれしかった。私の後を左近に継いでもらって、みんなの幸せを守る仕事を広げていってほしい。そして、医療や福祉の世界はこれから大きく変わっていく。だから左近なりの考え方で、どんどん新しいことにチャレンジしてほしいと思っていますよ。
山本左近(以下S):あらためて、認知症予防において大事なことは何でしょうか?
山本孝之(以下T):怒ったり悲しんだりしないことですね。不愉快な状態が長く続くことが一番いけません。いつもニコニコして、楽しく、生きがいを持つことです。 毎日を楽しそうに過ごす方は自立度が向上していき、悲しい表情で憂鬱に過ごす方は症状が悪化していく傾向があります。
S :認知症予防に最も大事なのは生きがいを持つことと言われましたが、入院患者さんに生きがいを持って何かに取り組んでいただきたいということで、例えば老人の方でも新しいことを勉強できるよう「老人大学」を開講しましたね。それは、今でもさわらび大学として引き継がれてまして、地域の皆様と当法人職員が一緒に勉強できる勉強会があります。
T :死ぬ瞬間まで、いかに自分が充実した人生を送ることができたかを追求し続ける。それが人生です。勉強する意欲のある方に対しては、勉強する機会を作らねばならない。そう思ったのです。
S :生きがいとは、自分が一番好きなことを見つけることから生まれると思うんです。でも、それを見つけるのはなかなか難しい。考え続けないと見つからないものかもしれません。やりたいことを見つけるためのきっかけを、さわらび会として提供できたらとの想いがあり、機関誌やさわらび大学などを継続してきたと思うんです。
そして、そういった情報を必要とする人びとに、このメディアを通じ伝えることができたら。今まで以上に多くの人びとのお役に立てたら、そんな嬉しいことはありません。
T :認知症患者の方のケアとして、左近はどんなことに取り組んでいくべきだと考えているのですか?
S :認知症になってしまった患者さんに対してのケアももちろんですが、今後さらに取り組んでいくべきだと思うのが、認知症予防と在宅ケアの更なる強化です。
平均寿命が伸びるほど、認知症のリスクは高まる。日本人の認知症患者は今現在約400万人、10年後には700万人以上とも言われています。そこで始めたのが認知症予防脳ドックです。
認知症予防には生活習慣もとても大事ですよね。理事長ご自身は毎日、腹八分目、早寝早起きを心がけていらっしゃいますね。
脳のMRIで画像検診するだけでなく、血液検査、そして、食事や飲酒、喫煙など細かい生活習慣チェックをした上で運動能力、さらに記憶力や判断力を臨床心理士が専門のテストでチェックする、というものです。
40歳を迎えた健康な皆さんほど受けていただきたい。受診して下さる方が増えれば、より多くの方の早期対応ができ、認知症の発症を先延ばしにできたり、軽度で維持できるかもしれない。その部分は、まだまだできることがたくさんあると思います。
そして在宅ケアも、今以上に充実させていき、地域の皆さんの生活を支える力になりたいです。
理事長が作ったものをいかに成熟させ、いかに質の高いものにするか。
また、さわらび会の長寿医学研究所や神経病理研究所で、アルツハイマーの超早期発見法や治療法の研究を関連各所と積極的に進めていきたいです。10年後でも20年後でも、もしかしたらアルツハイマーを治す薬がそこから生まれるかもしれない。その希望を持ち、研究所をきちんと運営し続けたい。
T :それは、本当に素晴らしいですね。私たちは、いつか、認知症介護の三原則が必要なくなる日が来てほしいと思っています。
昔に比べると今は社会的な理解も進み、介護保険制度も整ってきています。それでも、今の社会の中で、私達が先駆者としてできることはまだたくさんありますよ。
S :地域包括ケアシステムの構築を求められる中で、さわらび会だからこそできる医療/介護/障害/保育が連携する「福祉村ケアシステム」をもっと追求していきたい。それが、ここ数年の僕の一番大きな課題だと思っています。
必要とされれば、どんどんと情報を外へも発信していきたいですね。日本を追って、アジア諸国も高齢化が進む中で間違いなく同じ問題を抱えます。その時に私達ができることは何なのかも、考えていく必要がある。今まで世界中を飛び回って戦ってきた経験は、今の僕を築き上げてきてくれた大切な宝物。
日本では、2025年に大きな節目が来ます。団塊の世代が後期高齢者になるのが、この年です。この時の日本をどうするかということを、今みんなが一所懸命考えています。示された回答の一つが「地域包括ケアシステム」。医療と在宅介護の連携システムをみんなで作っていこう、という考えです。
実は、さわらび会がこれまでやってきたことは、地域包括ケアシステムの考えと何ら違いはないと思います。人びとがお互いに支え合うことで、地域の生活を守る。そこに医療と介護が専門的なケアでサポートする。手段として医療も施設介護も在宅介護も全部ある。あとはいかに時代に則した形で常に最適化して、「福祉村ケアシステム」として機能させられるか。
基本理念や根本は変わらない、けれども、もちろん時代に沿って変わらなければいけないこともある。
T :そうだね。左近と私は経歴も、歩んできた道もまったく違う。常に変化する社会をよく見極め、必要とされることを一つ一つしっかりと取り組んでいくことがとても大事になる。これから先は左近がどんどん、自分のやり方でこの福祉の道を広げてくれたらいい。長くヨーロッパで暮らし、F1で世界中を転戦した立場として、伝えていけることはたくさんあるはずだから。
S :父が作ってくれたこの福祉村には、病院や認知症の高齢者施設があるだけじゃない。元気な高齢者も、障害者も、保育園児も、働く健常者もみんながこの福祉村にいる。福祉は幸せという意味と考えると、ここは、「幸せ村」なんです。 私たちの基本理念は「みんなの力で、みんなの幸せを」。まさにこの幸せを守る村「福祉村」から、この地域と日本の幸せ、そして、世界の幸せのために、これからもさわらびグループ全体で力を合わせて、「福祉村ケアシステム」が少しでも皆様のお役に立てるよう努力していきたいと思います。