山本左近 リオ パラリンピック 観戦記 その3 総括 2020にむけて
ブラジルの人々はリオの青空に輝く太陽のようにどこまでも陽気だ。どの種目、どこの国の試合であったとしても戦っている選手を一生懸命、心から応援する。障害者のスポーツは暖かな目で見なきゃいけないとか、そういう考えは一切不要。良いプレイには大歓声と拍手を送るし、ラフプレイがあればブーイングも起こる。
偶然にもリオ直前に滞在していたNYでUSオープンの試合を見に行く機会があった。ジョコビッチや錦織など彼らの超一流プレイヤーの試合と、パラリンピックの車椅子テニスの試合を比べて、スポーツとして、またエンターテイメントとして全く遜色ない。パラリンピックでは、それほど高いレベルで試合が行われているのである。あっという間に引き込まれるほどのプレイは一体彼らがどれほどの努力を積み重ねてきたのか想像を絶するレベルだ。
実は行く前に映像をいくつか見ていたけど、正直ピンときてなかった。でも、リオの熱気あふれる会場に着いて行われている競技を見た瞬間に一気に魅了されてしまった。
パラリンピックを初めてみて、これほどまでに魅力的なものを何故今まで知らずに過ごしてきたんだろうっと思った。
50年の歴史があり、初開催が1964年の東京だとは全く知らなかった。2020年の東京で開催されるパラリンピックで、改めて多くの日本人がパラリンピックの魅力に触れるだろうが、それまでに僕と同じようにパラスポーツを知らない多くの人たちに、もって知ってほしいと思う。例えば今回リオの会場内にはパラスポーツ体験コーナーがあり、見るだけでなく実際に自分が体験してみることで理解が増えるような取り組みもあった。このような取り組みが4年後に向けて東京のみならず全国で広がっていくことを願う。
そして、障害福祉に携わる私たちも考え直さなくてはいけないのではないか?日常生活を支えることで良しとしていないか?本人も家族も、支援者も気づいていないだけで、もっともっと彼らは内に秘めた可能性を持っているんじゃないか。それを見つけ、引き出すための環境作りが日本からもっとパラリピアンが増えるために必要なことだろう。
パラアスリートはカッコいい。パラリンピック・パラアスリートの魅力は、人間の秘めている可能性の発見と、それを磨き続けてきた努力が眩いぐらい輝く光だ。
リオは雲ひとつない真っ青な青空に真夏のように肌が焦がされるほど照りつける太陽の輝きは春とは思えないほどであった。
早朝のビーチでランニングした後にそのまま海へ入ると冷たい水が火照った体を冷やしてくれる。
そんなレベルで選手達は戦っていない。
パラスポーツには目を隠して音を聞いて戦う5人制サッカーのようなものもあるので、時として仇になってしまうこともあるのだけれど
サイレンスプリーズ シレンシオポルファボールと言っていても良いプレイがあった時にどうしても声が出てしまう時もあった。
ボールから出る鈴の音を頼りにプレイしている選手からしたら応援も嬉しいけれどちょっとやりにくさもあったと思う。でもあれだけの声援は嬉しかったはずだ。
テニスに限っていえば、
飽きることがないばかりか、見ればみるほどどんどんとのめり込んでいった。
多分まだ日本では行く前の僕と同じようにパラリンピックがどういうものか分からない人も多いと思う。
障害者のスポーツは暖かな目で見なきゃいけないとか、そういう考えは一切不要。そんなレベルで選手達は戦っていない
少し前に障害者施設で非常に悲しい大きな憤りを感じるできごとがあった。障害者は役に立たないから殺してしまえばよい。と供述したことに共感者がいたというのも唖然とした。
役に立たないかどうかはパラリンピックを見ればよい。そんなことを言っている人間のほうが役立たずだ。
障害福祉に携わる私たちも考え直さなくてはいけないのではないか?
日々の日常生活を支えることで良しとしていないか?
本人も家族も、支援者も気づいていないだけで、もっともっと彼らには可能性があるのではないか?
日常生活の支援はできて当たり前。今後はさらに彼らの内に秘めている力を見つける努力をと、引き出すための環境作りをしなければいけないのではないか。
自己実現の支援をするためには、家族や障害者自身の考え方なども大きく関わってくる。
日常生活の壁を乗り越えるのは私たちが取り除けばいいが、夢を実現させる時に出てくる壁は自らが乗り越えなくてはいけない。パラアスリートは特別だ。努力によって壁を乗り越えてきたから彼らは特別なのだ。努力する人を僕は心から尊敬する。
隣の芝生を青く見るのはもうやめよう。目の前にある宝物を磨こう。