7月10日(日)活動報告

2022.7.10

誕生日のお祝いで、皆さんから大変お気遣い頂き、心温まるお言葉をたくさん頂戴したこと心より感謝申し上げます。

大変悩みましたが、40歳を迎えた今の心境を記します。

これからも引き続き、ご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。

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僕は、7 9 日、不惑の年を迎えた。

前日 8 日には安倍元総理が凶弾に倒れて、ご逝去されるという、誰も想像できるはずがない状況の中で、誕生日を迎えた。

今もまだ悲しさ、悔しさ、虚しさ、やるせなさ、などの複雑な感情が渦巻いている。

それでも、これは前を向いて進んでいくしかない戦いなのだと改めて認識させられる。

これまで僕が取り組んできた F1のレースもそうだったが、命をかけて戦い続けなければいならないのが、国会議員なのである、と。

40 年前に生まれた時の写真を見ながら、両親は一体、僕にどんな人生を望んだのだろうと考えた。

きっと僕が F1 ドライバーになることを望んではいなかっただろうし、衆議院議員でもなかっただろう。ましてや 40 歳になるこの日まで結婚していないなんて、想像すらしていなかったに違いない。

小さい頃から、「しっかり勉強してお医者さんになりなさい」と言われていたので、僕に医師としての人生を望んでいたのは容易に想像がつく。

だが、小学 1 年生の時に出席した病院の落成式が僕の運命を変えた。7階建ての真っ白な建物に、僕は、自分の人生のレールを見たのだ。

医師になり、父のあとを継ぐ。それが、7 歳だった僕が受け取った白い巨塔からのメッセージだった。

だがその瞬間、僕は「それでは父を乗り越えられない」と思った。

それは、僕の自我が覚醒した瞬間でもあった。

ちょうどその頃、僕は、運命のようにレースと出会った。

初めて鈴鹿サーキットで F1 を見た時の興奮は今でも忘れられない。「これだ!」と一気に魅了され、僕は「F1ドライバーになるためにはどうすれば良いのか」を考え始めた。

スマホやインターネットがない時代、情報源は新聞、テレビ、雑誌しかなかったが、僕は、多くの一流レーサーが 12 歳までにカートレースからスタートしていることを知った。「レースなんて危険だ」と反対する両親を、なんとか土下座して説得し、僕は鈴鹿サーキットのスクールに飛び込んだ。

それ以来、僕はレースにどんどんハマった。当時は年齢ごちゃ混ぜ、必然的に大人との真剣勝負になった。生来の負けず嫌いが一段と磨かれたのは、おそらくこの頃だ。

舞台は日本にとどまらず世界に広がり、2002 年、19 歳で日本を飛び出した。そして 24歳の時、当時、日本人最年少 F1 ドライバーとしてデビューした。

僕は 30 歳になるまでの約 10 年間、ヨーロッパを拠点にしながら世界を転戦した。日の丸を背負い、F1 というワールドスポーツに身を置き続けた経験は、僕に日本人というアイデンティティを深く意識させ、また、祖国日本への思いを一層強くさせた。

同時にこの 10 年間は、世界のなかで日本のプレゼンスが落ちていく様子をまざまざと見せつけられた時期でもあった。街中にあった看板は日本メーカーのものから、いつの間にか中国や韓国のメーカーに置き換わった。

日本が衰退していく。その様子を目の当たりにしていた僕には、寂しさよりも悔しさが強かった。

そして 10 年前、2012 年、僕は日本に帰ってきた。家業であった医療介護福祉の世界に飛び込んだのはいくつかのタイミングが重なったからだ。僕がこの世界に飛び込むなんて、それを決意する前日までまったく想像もしていなかったが、医療や介護福祉の現場に、人の命と向き合う仕事の価値と希望を見出した。

同時にこの世界には課題が多く、日本のあちこちで起きている医療や福祉の問題を解決するには、国レベルでの施策が必要なことに気がついた。

その思いが日に日に強まるなかで、僕はいつしか国会をめざすようになった。

F1ドライバーから医療介護福祉の世界へ、そして、国会へ。

ともすると、ここには接点がないように見えるが、僕にとってはすべてが伏線であり、まさに運命ともいえる流れだった。

F1ドライバー時代、世界を転戦してきたことで、僕は外から見える日本を客観的に知った。それは僕の大きな武器であると思ったし、また、日本の基幹産業である自動車業界に精通していることや、医療介護福祉の現場を知っていることは、経済と社会保障の両立を進めるうえで役立ち、ひいては日本の未来を再興する手段になるからだ。

2019 年の参院選全国比例で、僕は初めて選挙に挑戦したが、結果は落選だった。だが、僕の挑戦はここで終わらなかった。昨年の秋、第 49 回衆議院議員総選挙が行われ、僕は東海比例ブロックでの立候補となった。過去、東海比例が当選することなどほとんどなかったが、東海地域で少しずつ自民党候補者が勝っていき、深夜 2 時ごろ、NHK で当確が出た。

信じられなかった。

僕には、40 歳になる前に衆議院議員になりたいという思いがあった。まさか、自分が本当に当選できるとは夢のようだったが、夢を追いかけ続けること、想いを持ち続けることの大切さを改めて知った。

2021 11 1 日。衆議院議員として国政に送り出してもらってから、僕の人生が一変した。

11 10 日に初登院し、議員バッジをいただいた時には嬉しさよりも、責任と重みが勝っていた。これからは今まで以上に、日本や日本国民のために働くのだと、国会議員としての第一歩を踏み出した。

それ以来、1 年生議員として初めてづくしの体験が続いている。自民党の各部会に出席したり、国会質問をしたり……。常に緊張感を感じる毎日だ。

そして、僕は 40 歳、いわゆる「不惑の年」を国会議員として迎えた。一般に、不惑の年とは「迷うことがない年齢」とされるが、実は、孔子が生きていた時代に「惑」という漢字はなかったことから、孔子は「不惑の年」ではなく「不或」と言いたかったのではないか、という説もある。

「或」という文字は、「区切る」「限定する」という意味だ。すなわち孔子は、「四十歳で自分自身に区切りをつけず、もっと学びを深め、行動するべきだ」と言いたかったのではないか。

これまで僕は、出会った方や、応援してくれた方など、多くの皆さんからの支えがあって、今日まで生きることができた。

また、これまでの長きにわたって日本を築いてきてくれた先輩方がいたからこそ、僕は世界を舞台に日本人として、堂々と胸をはって戦うことができた。

これからは、先輩たちの意志や志を少しでも受け継ぎ、日本人が、また未来の子供たちが希望と夢を描き、日本人であるという誇りを持てる国づくりをしたい。

人口減少、超高齢化、経済、外交・安全保障、社会保障など日本の課題は多いが、いくつになっても、誰もが幸せに生きる社会を実現するために。

そのために、これからも僕は、自分自身で限界を決めることなく、どんな悪路にも難関にも挑戦し続けていく。

感謝。

山本左近 拝

 

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