rioレポート 人間は自己実現不可能な夢は思い描かない

2016.9.9

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障害者だと思ったことがある。
そう書くとビックリするだろうが、ほんとうにそう思ったことがある。19歳のころ、F1ドライバーを目指し単身でドイツへ渡った。英語は少々できたが、ドイツ語は全く分からなかった。
はじめて行ったレストランでトイレへ行き、Heren、Damenとかかれた2択のドアの前で迷った挙句、menと書いてあるからこっちか?とウルトラクイズばりに意を決して飛び込んだ僕はまんまと失敗し、ドアを開けた瞬間に恰幅のいいドイツ人中年女性が現れ、ひどい剣幕で怒鳴られたことがある。
そんなに怒らなくても良いのに!と思ったのだが、住んでみたらそれがドイツ語の響きだと気がついた。
はじめて言葉の壁にぶつかった時だった。

今年リオで開催されるパラリンピックへ行った理由は二つある。
いま障害福祉の仕事に携わっていること、元F1ドライバーというアスリートであることの接点がパラリンピックだと思ったこと。
もう一つは、元F1ドライバーで15年前のレース事故で両足を切断したアレックス・ザナルディが、新たなフィールドで挑戦しロンドンのパラリンピックで金メダルを取ったというニュースを知ったこと。
正直分からないことだらけだったが、とにかく現場にいってみたいとの思いに駆られリオ行きを決めた。

9月中旬、NYからパナマシティーを経由して、リオデジャネイロ国際空港に朝6時半到着。
暑さよりも涼しさを感じるところがまだ春先のリオだった。

いつも新しいところに降り立つ瞬間は五感がフルに働く。
景色、匂い、音、肌感覚、空気の味。
珍しく飛行機でよく眠れなかったが、パラリンピックの会場へ向かう足取りは全く疲れを感じさせないほどワクワクしていた。

シャワーを一浴びして早速向かった会場でまず目にしたのは、鮮やかな色合い
だ。カラフルなRio2016バナーや ボランティアのユニフォームなどに加え、黄色と緑のブラジル国旗カラーを見にまとった観客が続々と競技場へ入っていく。
入ると今度はその熱気に圧倒された。平日の午前中ということもあり、競技場に人はまばらだったが、日も昇り、焼けるような暑さも手伝い、ブラジルらしい陽気で明るい観衆の熱さに包まれていた。

しかし、それらは序章に過ぎなかった。

目の前を通り過ぎていく細長い3輪車椅子に前傾で乗り込み、両腕を思いっきり振りながら物凄い速度でカーブを走り抜けていく陸上レース。義足選手の走り幅跳びや走り高跳び、盲目の選手のリレー、完璧に鍛え上げられた知的障害のアスリートのレースは試合だけ見てもどこに障害があるのか分からない。視覚障害5人制サッカーにしても本当は視えてるんじゃないの?と思うほどだ。

車椅子バスケットボールでは、彼らの動きは、見ている者に車椅子に乗っていることを忘れさせてしまうほど華麗なクイックターンをし、 シュートを決めいてく様子に観客みんなが引き込まれ、プレーヤー同士の激しいぶつかり合いは、見ている僕が「痛いっ」と言ってしまうほどだった。その迫力に会場の熱気が増していく。

どの競技、どの選手も、彼らの目は戦っている勝負師の目だ。会場からのワーーっという大声援の中で、勝利することを目指し全身全霊をかけて集中したプレイは車椅子に乗っていることや障害を持っていることを見る側に全く意識させない。
そのような各国各地域の代表選手として勝負をする人たちを僕は障害者だとは一切思えない。
純粋にそのアスリートが放つ輝きに魅了され、時が経つのを忘れるほど見入ってしまった。

自分の限界への挑戦をし続けるのが真のアスリートであるならば、リオの会場でパラリンピック記録や世界記録が次々と出てきたとき、彼らはまさにその1人だと思う。

その一方、一般社会で障害者だと言われてしまうのは、日常生活の中で僕たちが彼らにバリアを作っているからなんだと改めて認識させられる。
障害というバリアを乗り越える必要なんてない。僕たち1人1人がバリア自体を消してしまえばいい。
みんなが乗り越える必要があるのは、その人の想いや夢に向かって進む時に必ずでてくる壁である。その時に、お互いに支え合い、壁を乗り越え、人は成長していく。
次なる2020東京パラリンピックの開催意義はそこにあるのではないか。

パラリンピックの歴史を紐解くと、前身である国際ストークマンデビル競技大会が1964年の東京オリンピック大会後、同時に開催されていたことをリオに来てから知った。

1964年東京オリンピックの開催によって、東京のみならず日本は大きく変わっていった。新幹線や首都高が開通したり、カラーテレビが放送されたり、ものづくり日本を象徴するような社会インフラが整っていった。人口も増え、僕たちは豊かになった。
56年後、再び東京でオリンピック・パラリンピックが開催される。約半世紀が過ぎ、社会は成熟し、当時の若者たちも高齢者と呼ばれる世代になった。健康長寿国である日本の高齢化率は27%で、少子超高齢社会と呼ばれる。

パラリンピックがイベントとして成功することをもちろん望むが、本当に僕が望むことは、このパラリンピックを通じて、障害者と健常者との間にある偏見や差別などがなくなり、日常生活での距離がもっと近くなることである。

こうやって書くと難しいことを言っている様に写るかもしれないが、レストランやバー、イベントへ出かけた際に、障害を持った人も自然にその場で一緒に楽しんでいたり、街中で買い物にでかけていたり、一緒に働いていたり、スポーツしたりといった、そんな光景が当たり前の社会になってほしいと強く 思う。
物理的な段差をなくすことも大事だが、日本中をバリアフリーにするなんて馬鹿げてませんか?
それよりも、困った人がいたらさっと手を差し出したり、お互いが気軽に挨拶ができて、気遣うことが自然とできる「心のバリアフリー」を、パラリンピックレガシーとして東京から発信し、世の中がより良く、大きく変わってほしい。
そのために今から小さな僕でも自分自身できることを取り組んでいきたい。
なにより、人生を全力で生きていきたいと思う。

アスリートたちは、僕たちの社会に夢や希望を与えてくれる。
彼らは僕に新たな夢を与えてくれた。
「人間は自己実現不可能な夢は思い描かない。」

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