山本左近 リオ パラリンピック 観戦記 その1

2016.9.12

障害者スポーツの障害ってなんだろう? リオの興奮と熱気に包まれたパラリンピックゲームを見てそう感じずにはいられなかった。
目の前を通り過ぎていく細長い3輪車椅子に前傾で乗り込み鍛え上げられた上腕部を思いっきり振りながら走っていったり、盲目のランナーが物凄い速度でカーブを走り抜けたりしていく陸上レース。完璧に鍛えられた知的障害アスリートのレースに至ってはパッと試合だけ見ていてはどこに障害があるのか分からない。また陸上だけでなく、車椅子バスケットボールを見ても、彼らの車椅子の動きは今まで見たことがない動きをしながら、見ているこっちが痛いっと思ってしまうぐらいプレーヤー同士が激しくぶつかり合いながら点を取り合っている。
何より彼らの目は戦っている勝負師の目だ。会場からのワーーっという大声援の中で、勝利することを目指し全身全霊をかけて集中したプレイは車椅子に乗っていることを見る側に全く意識させない。
そのような各国の代表選手として勝負をする人たちを僕は障害者だとは一切思えない。
純粋にそのアスリートの放つ輝きに、時が経つのを忘れるほど魅入ってしまいった。

自分の限界への挑戦をし続けるのが真のアスリートであるならば、リオの会場でパラリンピック記録や世界記録が次々と出てきた彼らはまさにその1人だと思う。

その一方、一般社会で彼らが障害者だと言われてしまうのは、日常生活の中で私たちが彼らにバリアを作っているだけなんだと改めて認識させられる。
彼らが障害というバリアを乗り越える必要なんてない。私たち1人1人がバリア自体を消してしまえばいい。
私たちみんなが乗り越える必要があるのは、その人の想いや夢に向かって進む時に当たる壁である。
その時に、お互いに支え合うことができる社会環境を作ることために、みんながそれぞれ大切な役割を持っているのだと思う。アスリートたちのエネルギーは僕たちに夢や希望を与えてくれる力がある。

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