プロフィール

誕生~幼稚園時代

 1982年7月9日、愛知県豊橋市に生まれる。母も働いていたため、幼稚園のお迎えはいつも最後だった。
 マイケル・ジャクソンの踊りを真似してみんなに披露することが多かった。

小学校時代

 6歳の時、F1が大好きだった母と一緒に鈴鹿サーキットへ。一瞬で心を奪われ、最前列で金網にかじりついて観戦した。それ以来、寝ても覚めても頭はF1...のことばかり。ミニ四駆を自分で改造して遊ぶこともあった。

 周囲は父のあとを継いで医者になることを期待したが、2年生のとき、福祉村で行われた介護施設の落成式に出席。青空を背景にそびえ立つ建物を見たとき、自分が医者になって父のあとを継ぐというレールが目の前に浮かび、「このまま医者になっても父を超えられない」、「将来はF1ドライバーになる」と決意した。

 10歳の時、当時活躍していたF1ドライバーのほとんどが11歳までにカートを始めており、12歳よりあとに始めた人でF1ドライバーになった人は0.1%という事実を知る。「自分も絶対に12歳までにカートを始めなければ!」と決心。その冬、鈴鹿サーキットにカートスクールが創設されたことを知り、資料を取り寄せた。だが両親は猛反対。しかし土下座して両親に頼み込み、「学校を休まない」「成績を落とさない」ことを条件に入校を許可される。
 カートスクール入校日、自己紹介で「左近という変な名前ですが、よろしくお願いします」と挨拶したら、隣に座っていた同期の高校生が「変じゃない、カッコいい名前だよ」と言ってくれた。初めて自分の名前が好きになった。

 6年生の夏休み、家族旅行でイタリアへ。サンマリノ公国のCD屋で流れていた音楽がカッコよかったので店員に尋ねると、テープを渡された。「テープ? 古いな」と思ったが、それはダンスミュージックのミックステープ。「なぜ、曲間がないの?」と聞くと、店員は「みんなが踊りやすくするためだよ」と教えてくれた。学校でそのテープを意気揚々と放送したら「なに、あの変な音楽」と友達から大不評。しかし、若い女の先生だけは「おしゃれな音楽ね」と言ってくれた。これが、DJの原体験となる。

中学校時代

 地元の中学校へ進学。1学年約440名、13クラスという県内でも有数のマンモス校だった。2年生のとき、生徒会役員に立候補。選挙演説では「インパクトの...ある内容にしよう」と考え、クラスの友人に協力してもらいに、演説中にいきなり寸劇を披露。多くの票数を獲得し、見事当選した。

 14歳のとき、F1ドライバーになるには世界で戦わなければと考え、ベルギーのゲンクサーキットで開催されたジュニア世界選手権に、CRGというイタリアの名門チームから出場。だが結果は予選落ち。世界のレベルの厚さを体感し、中学卒業後はイタリアに渡ろうと考えた。ベルギーから帰国後、豊橋市内でイタリア語を教えてくれる先生を探して週一回、教わった。勉強とともに先生が教えてくれたのは、パスタをアルデンテに茹でる方法やトマトソースの作り方。この後、ヨーロッパで一人暮らしを始めた時にとても役立った。

 ベルギーのホテルで朝食に食べたクロワッサンのおいしさに感動。特に、パンオショコラを初めて食べた時は、「世の中には、なんておいしいものがあるのだろう」と本気で思った。炭酸水を飲んだのもこの時が初めて。最初は違和感があったが、すぐに慣れて好きになった。当時の豊橋市内ではあまり売られていなかったため、レースでヨーロッパを訪れるたび、現地で飲むのが楽しみだった。

 2年生の時、大学生だったスクールの先輩からもらった年賀状に書かれていた「人間は自己実現不可能な夢は思い描かない」という言葉に、大きな衝撃を受けた。確かに、人間は月に行きたいと思ったから行けたのだ。だから僕もF1ドライバーになる夢を必ず叶えることができる。それ以来、この言葉は座右の銘になった。

 3年生のとき、地方カート競技選手権中部東海地区チャンピオンを獲得。鈴木亜久里さんがオートバックスと始めた「将来のF1ドライバーを育成する」というARTAプロジェクトに応募。全国1,507名の中からわずか7名の1期生として選ばれた。

高校時代

 県立豊橋南高校に入学。自宅から学校まで約15kmの道のりを自転車で通学した。そのおかげで3年生のときには太ももが競輪選手並に太くなった。
 ...1年生のころ、全日本選手権でうまく結果が出ず、ARTAのプロジェクト候補生からも外れ、とても悔しい思いをした。なぜ結果が出ないのか悩んでいると、先輩が厳しい助言をたくさんくれた。「もっと勝ちたい」「もっと努力しなければ」と心に誓った。
 2年生のころ、全日本カート選手権FAクラスでチャンピオンを獲得した。東西日本のレースで勝ち上がったレーサーが戦う東西統一戦。「ここで優勝しなければチャンピオンになれない」という中で優勝したことは、大きな自信につながった。
 3年生のとき、カートのヨーロッパ選手権にも出場した。スポット参戦で結果を出すことは難しかったが、ヨーロッパ選手の層の厚さを痛感。F1をめざすにはヨーロッパへ行かなければと改めて強く思った。当時、同じレースにはニコ・ロズベルグやルイス・ハミルトンなど将来、F1チャンピオンになるドライバーがマクラーレンのワークスチームから出ていた。

 当時、F3にはチームトムスという常勝チームがあった。1年生の時から「F3に乗るならトムス」と家族に語っていたが、3年生の時、授業中に母から学校へ電話が入った。何事かと思ったら、「トムスから電話があり、来季契約したいと言っているから、すぐに電話をかけて」と。今でも電話先で母が興奮していた様子は忘れられない。

 18歳を迎えた誕生日。父は、「左近はどんな人生を送りたいのか?」と聞いた。僕は「幸せな人生を送りたい」と、普段考えたこともない言葉を口にして、自分でも驚いた。「じゃあ、どんな人生なら幸せになれるんだ」と聞かれたので、「F1ドライバーになる」と答えると、父は、「よし、わかった。左近が幸せになれるように、今日から全力で応援する」と言った。それまでF1ドライバーになることを反対していた父から初めてその言葉を聞いて、僕は思わず涙が出た。

 南山大学の入学試験に無事合格し、「どうせ無理だ」と言っていた友人や学校の先生はみんなびっくりした。誰もが「無理」ということに挑戦し、成功に向けて計画を練り、実行するのはとても楽しいということを知った。

国内レーサー時代

 F3に上がったばかりのころはチームトムスに所属し、非常に恵まれた環境だったが、プッシュしすぎてクラッシュすることもあった。F3デビューした当時は、...やる気が実力の何倍も上回り、空回りしているような状態だった。
 鈴鹿の予選で大クラッシュ。無意味な失敗を非常に悔やんだが、チーム監督から「過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がない。時間は戻ってこないが、次のチャンスは来る。再び同じ間違いを犯さないように、なぜミスしたか原因を頭に叩き込んでおけ」と言われた。ミスを犯してしまっても、前を向いて進むようになったのはこの時からだ。
 夏頃になると車の力をだすことができるようになり、成績も上り調子。7月の鈴鹿で、初めて表彰台を獲得した。シリーズ通して4位の成績で、最年少かつ日本人最上位だった。2004年優勝。

フォーミュラワン~
F1レーサー時代

《2005年》
ジョーダンGPより、日本GP サードドライバー
《2006年》
スーパーアグリF1チーム サードドライバー。ドイツGPから...当時日本人最年少F1パイロットとして参戦
《2007年》
スパイカーF1 ハンガリーGPよりレースドライバー。日本GPでは、大雨の中12位完走
《2008年》
INGルノーF1チーム テストドライバー
《2010年》
HRT F1 イギリスGPよりレースドライバー
《2011年》
マルシア・ヴァージン・レーシング リザーブドライバー

さわらびグループ時代

 2012年、スペインのバルセロナから帰国し、さわらびグループの経営に携わることに。医療法人さわらび会/社会福祉法人さわらび会統括本部長就任。のち、...ホームヘルパー2級を取得。日本各地にある医療機関や福祉機関を積極的に視察。地域ごとの課題や問題に対して、強く意識をもつようになる。

 2013年、仲間を募り、22世紀の日本を良くする勉強会として「UNABALA22」を主宰。超高齢社会を考えてもらうためのきっかけ作りとして、映像を創ろうと盛り上がり、プロジェクト「90 society lab」を始動。各分野のエキスパートがそれぞれの強みを生かし、互いに高めあいながら、22 世紀への道筋を探った。

 EPA制度に基づく労働人口の減少を考慮し、さわらびグループで外国人看護師・介護士の受け入れを積極的に開始。歓迎会や食事会を開催するなど、こまめにコミュニケーションをとる。

 豊橋市長からの依頼を受け、豊橋市動植物公園のんほいパークの遊園地エリアに「のんほいサーキット」をオープン。コース設計から携わる。コースでもっとも工夫したのは、何回乗っても飽きずに楽しめるようなレイアウトにしたこと。

 ヨーロッパ時代から「自分の生まれた国なのに、日本の文化や歴史に対する知識が少ない」と感じていたため、2014年、知人の紹介により茶道(武者小路千家)を開始。今でも月一回のお稽古に通っている。

 2015年、インド福祉村を訪問。日本から現地までの所要時間は約24時間。シャワーがなく、バケツで水浴びする現地のスタイルを体験。はじめは衝撃だったが、2日目には意外と慣れた。その後、2017年にもインド福祉村を訪問。インドの経済成長を目の当たりにしながら、言葉や文化の壁を超えた交流を続けている。

 2016年4月14日に発生した熊本地震では、福祉村の職員数名と共にボランティアで現地へ。グループホームで介護のお手伝いをしながら、被災時にはどんなことで困るのか、何が不足するのかなどを確認。さわらびグループの震災対策に生かす。

 F1というテクノロジーの最前線を目の当たりにしてきたことから、医療や福祉の領域にもテクノロジーを取り入れることを示唆。積極的に業務の効率化に取り組む。2018年、毎年ラスベガスで開催される“世界最大の家電見本市”、CES(Consumer Electronics Show)を視察。VR/ARの進化や5Gなど最新テクノロジーに触れ、医療福祉の未来を考える。

 頭は理系、でも感情は文系。小説や映画で感動しやすく、涙もろい。
 密かな趣味は料理。得意なのは中学生の時、イタリア語の先生に教わったトマトパスタ。意外と掃除も好きで、家庭的。

 2017年4月、サハラマラソンに挑戦。そのきっかけとなったのは2016年、視察に出かけたリオパラリンピック。障がいがあっても、自分の能力を最大限発揮するアスリートを前にして、「自分が頑張ることで、誰かの力になれたら」という思いを実感。世界一過酷といわれるサハラマラソンにチャレンジすることを決意。これまでフルマラソンさえトライしたことがなく、入念な準備もせずに慌ただしくサハラへ出発。レースでは想像以上の過酷さに苦労したが、結果は見事完走。義足の人や目が見えない人もレースに参加している様子を見て、障がいのある人もない人も平等に評価されるステージを創出し、ノーマライゼーション社会を築く必要性を感じた。
 2018年、「おいしいものをおいしく味わう。そんな当たり前の幸せをすべての人に届けたい」という思いから、SAWARABI HAPPY FOOD PROJECTを始動。分子調理のメソッドを使って、おいしさの再現性を高めた介護食レシピの開発に取り組む。以前から、介護食に対しての問題意識があり、試食するたび、「もっとおいしくできるはず」という気持ちを募らせていた。
 SAWARABI HAPPY FOOD PROJECTの発端となったのは、あるひとりのお年寄り。以前、施設の利用者さんからいただいた手紙がとても嬉しかった。多忙な日が続き、なかなかお礼に伺えずにいたところ、ある日、その方が亡くなったことを知り、御礼を言いそびれてしまった馬鹿な自分に強い後悔をする。最後まで美味しいご飯を楽しんでもらいたい、という思いがプロジェクトのきっかけ。試作第一弾として、「にぎらな寿司」を開発。分子調理についてはスペインに住んでいた頃、三つ星レストラン「エル・ブジ」が採用していることで知っていたが、一流レストランでなくても同じ手法が使えると知り、挑戦を始めた。現在も試食会を重ねながら、おいしさの磨き上げに取り組んでいる。

 2018年、学校法人「さわらび学園」の理事長に就任。未来の医療や福祉を担う人材を育成するため、能動的に学ぶアクティブラーニングを実践している。